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ビジネスホテルの枠を超えた「朝の美学」レストラン Biplane(バイプレーン)で朝食を楽しむ♨ふく井ホテル2026/02/26~27

 ビジネスホテルの枠を超えた「朝の美学」レストラン Biplane(バイプレーン)で朝食を楽しむ こんにちは 猫好き父さんです ふく井ホテル レストラン Biplane(バイプレーン)の 朝食です 今回は 和定食と 洋定食を 頂きました 次は 中華がゆに挑戦してみようかなあ 「朝の美学」朝食 帯広の老舗「ふく井ホテル」の2階にあるレストラン Biplane(バイプレーン) 。ここの朝食は、ビジネスホテルの枠を超えた「朝の美学」を感じさせる内容で、地元のファンも多い名物です。 一般的な視点から、その特徴を**リチャージ(整理)**して解説します。 1. 「選べる4つの朝」という贅沢なスタイル バイプレーンの朝食は、一律のブッフェではなく、メインの定食を 4種類 から選ぶハーフオーダー形式です。 和定食(人気No.1) : 十勝産大豆の味噌汁や、日替わりの焼き魚、手作り副菜が並ぶバランス重視のメニュー。 洋定食 : 自家製の 厚切りベーコン が主役。音更町産のブランド卵を使った目玉焼きや、十勝産小麦のパンなど、地元の「力強さ」を味わえます。 中華粥 : 鶏ガラ出汁の優しいお粥に、8種類の彩り豊かな薬味が添えられます。二日酔いや胃を休めたい時に最適です。 コンチネンタル : あすなろファーミングのヨーグルトや生野菜サラダ、フルーツを中心とした、ヘルシーで優雅な「ローフードスタイル」。 2. 素材への徹底したこだわりと「十勝の恵み」 レストラン単体としても評価が高いバイプレーンらしく、食材の鮮度と産地へのこだわりが**体幹(コア)**にあります。 卵の食べ比べ : 音更町・竹内養鶏場のブランド卵(「米艶」など)が用意されることがあり、黄身の色や味の違いを楽しめます。 あすなろファーミング : 十勝清水町から直送される濃厚な牛乳やヨーグルトが味わえます。 セミセルフ・コーナー : 定食とは別に、生野菜サラダ、納豆(音更町産大豆)、生卵、ドリンクなどは自由にお代わりできる「いいとこ取り」のシステムです。 3. レトロで上質な「複葉機」の空間 店名の「バイプレーン(複葉機)」の通り、店内にはアンティークな飛行機の模型が飾られ、落ち着いたレトロな雰囲気が漂います。 落ち着いた朝の時間 : 賑やかすぎるブッフェ会場とは一線を画し、クラシックなインテリアの中でゆったりと一日のス...

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歴史ある日光のルーツを知る旅!ガイドツアー(その3)二人の偉人⛩日光金谷ホテル2024/01/6~7

 こんにちは

猫好き父さんです

歴史ある日光のルーツを知る旅!ガイドツアー

先を急ぎましょう

神橋の脇に

大きな像が二つ建立されています

まずは

天海大僧正


天海大僧正(てんかいだいそうじょう)についてですね。日本の歴史において非常に重要な役割を果たした僧侶です。

天海は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した天台宗の僧侶で、特に徳川家康、秀忠、家光の三代にわたって徳川幕府のブレーンとして深く関わりました。彼の生涯は謎が多く、生没年にも諸説ありますが、徳川家康の信任が厚く、「黒衣の宰相(こくえのさいしょう)」とも称されました。

天海の生涯と功績

  1. 生没年と出自:

    • 諸説ありますが、永禄10年(1567年)に没し、享年108歳とも、元和2年(1616年)に没した徳川家康よりも長生きし、寛永20年(1643年)に108歳で亡くなったとも言われます。会津の蘆名氏の一族出身とする説が有力です。
    • 幼名は「随風」。若い頃から比叡山で仏教を学び、各地を放浪して修業を積んだとされています。
  2. 徳川家康との出会いと信頼:

    • 家康との出会いは諸説ありますが、家康が関東に移封されてからその知遇を得たと言われています。天海の学識と見識に家康は深く信頼を寄せました。
    • 家康は、自身の死後を天海に託し、その遺言に従って神格化(東照大権現)の儀式を執り行い、日光東照宮を創建することになります。
  3. 日光東照宮の創建と整備:

    • 天海の最大の功績の一つは、徳川家康を祀る日光東照宮の造営と、日光山全体(輪王寺、東照宮、二荒山神社)の整備に尽力したことです。家康の遺言に基づき、天海が神号や祭祀の様式、東照宮の配置などを考案したとされます。
    • 日光を、江戸(当時)の真北に位置する江戸の鎮護の地として位置づけ、風水や陰陽道の思想に基づいた都市計画を行ったとも言われます。
  4. 寛永寺の開山と江戸の都市計画:

    • 江戸城の鬼門(東北)にあたる上野に、家康の命により天台宗の寛永寺を開山しました。これは、江戸の鎮護と徳川将軍家の菩提寺としての役割を果たすもので、京都の比叡山延暦寺に対応する「東の比叡山」とされました。
    • 寛永寺の伽藍配置も、陰陽五行説や風水を取り入れた天海の思想が反映されていると言われます。江戸城、寛永寺、日光東照宮が一直線上に並ぶ「レイライン」は、天海が意図的に配置したという説もあります。
  5. 徳川家光の教育と政治への関与:

    • 徳川三代将軍家光の教育係を務め、その思想形成に大きな影響を与えました。
    • また、幕府の重要な政策決定にも関与し、宗教政策や文化政策に貢献しました。
  6. 文化人としての側面:

    • 和歌や書道にも優れ、多くの書物を出版させるなど、文化人としての側面も持ち合わせていました。

天海大僧正は、単なる宗教者にとどまらず、徳川幕府の安定に大きく貢献し、江戸時代の基礎を築いた陰の功労者と言えるでしょう。特に日光においては、その神聖な地の礎を築き、現在世界遺産となっている社寺の発展に不可欠な存在でした。


お次は


「板垣死すとも自由は死なず」

板垣退助と日光との関係は、戊辰戦争における日光山の戦いに深く関わっています。


板垣退助と日光の関係は、主に戊辰戦争(ぼしんせんそう)において、彼が日光の社寺を戦火から守った功績にあります。

戊辰戦争と日光の危機

明治元年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに始まった戊辰戦争は、新政府軍と旧幕府軍の間で全国に拡大しました。当時、旧幕府軍の一部(大鳥圭介らが率いる部隊など)が徳川家康を祀る日光東照宮のある日光山に立てこもり、これを追う新政府軍(官軍)の参謀が板垣退助でした。

板垣退助の功績

  1. 社寺の戦火回避:

    • 新政府軍の中には、徳川家康の祖廟である日光東照宮を「賊(旧幕府軍)の拠点」として焼き討ちにするべきだという意見もありました。
    • しかし、板垣退助は、日光の貴重な社寺を戦火に晒すことを避けたいと強く考えました。彼は、日光山の僧侶や、旧幕府軍の将である大鳥圭介らと交渉を重ね、戦闘を回避する道を模索しました。
    • 最終的に、旧幕府軍が日光から撤退して会津方面へ転進することと引き換えに、新政府軍は日光への攻撃を差し控えました。これにより、日光の社寺は大規模な戦火を免れることができました。
  2. 歴史的評価と銅像:

    • この板垣退助の働きは、日光の貴重な文化財が今日まで残される上で非常に大きな功績とされています。
    • その功績を称え、日光市の神橋(しんきょう)近く(日光金谷ホテルの前あたり)には板垣退助の銅像が建立されています。この銅像は、昭和4年(1929年)に一度建立されましたが、第二次世界大戦中の金属供出で撤去され、昭和42年(1967年)に再建されたものです。銅像は、彼が官軍の服装で日光の街並みを静かに見守る姿をしています。

このように、板垣退助は自由民権運動の指導者としてのイメージが強いですが、日光においては、戊辰戦争の戦火から世界遺産の社寺を守った「恩人」として、その名が語り継がれています。


旅はまだまだ始まったばかり

先を急ぎましょう

ということで次に続きます










ディズニー大好き!猫好き父さんのハッピー十勝ライフ

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